Leipzig Tourismus und Marketing GmbH

Augustusplatz 9, D-04109 Leipzig
 
Stand / Druckdatum: 07.12.2016

Bach-Museum Leipzig | Leipzig Tourismus und Marketing GmbH

 

 
 
 
 
 
 
 
 
   
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観光案内~ライプツィヒ発見    音楽    バッハ博物館
 

バッハ博物館
Bach-Museum Leipzig

ライプツィヒ・バッハ資料財団(Bach-Archiv Leipzig)の設置するバッハ博物館は、音楽の父ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)の生涯と業績を紹介する施設です。彼はトーマス教会音楽監督(トーマスカントル)としてライプツィヒでその創作活動期間の後半を過ごし、数々の優れた作品を書き上げ、そしてその生涯を閉じました。当時彼の住んだトーマス学校校舎・兼寄宿舎は、現在のバッハ博物館・資料財団のあるボーゼ館(Bosehaus)とトーマス教会に挟まれるように建っていました。ボーゼ館はバッハ一家と家族ぐるみの親交があった商人ゲオルク・ハインリヒ・ボーゼの旧邸で、かつてバッハも度々ここを訪れ、建物内に現存する「夏の広間」では音楽を奏でました。

歴史的バロック建築のボーゼ館は2010年に改装・拡張を終え、バッハ博物館はマルチメディアを駆使した体験型博物館へと生まれ変わりました。バッハがオルガン奉献式での演奏を担当したパイプオルガンの演奏台といった貴重な展示品、彼の諸作品全曲を聴くことのできる試聴室などのほか、空調管理された貴重品室では自筆譜やバッハ夫妻の墓から発掘された遺留品などを見学することができます。


詳細や特別展など最新の情報については、バッハ資料財団(バッハ・アルヒーフ)の日本語公式サイトをご覧ください(下記リンク参照)。
 
 
所在地
Thomaskirchhof 15/16, 04109 Leipzig
(中心街)

最寄り停留所・鉄道駅
► Thomaskirche(トーマスキルヒェ):路面電車9号線 / バス89番
または
► Leipzig Markt(ライプツィヒ・マルクト)・南口にあたるグリンマ通り出口(Ausgang Grimmaische Straße):都市鉄道(Sバーン)各線 も利用可

開館時間
火~日曜10:00~18:00
月曜休館

入館料
一般:8ユーロ
割引:6ユーロ
16歳以下無料
(毎月第1火曜は無料開館)

お問合わせ先
Tel.: +49 (0)341-9137-202
Fax: +49 (0)341-9137-205
http://www.bach-leipzig.de/index.php?id=38&L=2 (日本語)
 
 
 
 
 
 

◆ライプツィヒ物知り事典3

ライプツィヒとヨハン・セバスチャン・バッハ
Johann Sebastian Bach und Leipzig

ライプツィヒ旧市庁舎内の肖像画
ヨハン・セバスチャン・バッハは、後期バロックを代表する最も重要な作曲家の一人。バッハの家系は中部ドイツの音楽家一族で、彼は8番目の子(末子)として1685年3月21日、テューリンゲン地方の小都市アイゼナッハ(アイゼナハ)に生まれた。ライプツィヒへ赴任する以前、彼はアルンシュタット、ミュールハウゼン、ワイマール、ケーテンといった都市で、主に教会や宮廷に仕える音楽師として活動していた。

ライプツィヒのトーマス教会音楽監督(トーマスカントル)ヨハン・クーナウの死後、バッハはその後任となるが、市政側は最初からバッハを望んだわけではなかった。市参事会は初め、当時の有名音楽家ゲオルク・フィリップ・テレマンと作曲家ヨハン・クリストフ・グラウプナーを候補として選出した。ところが両者がこれを辞退したことから、後になってバッハを指名したのだった。バッハはケーテン宮廷に仕える楽長という特権的身分からライプツィヒにて市民相手の音楽監督へと転職することに一時難色を示すものの、1723年2月7日にその採用試験を受け、同年5月5日に市庁舎でトーマスカントルとしての雇用契約書に署名した。

この役職はトーマス学校の音楽教師としての職務の傍ら、ライプツィヒにおける教会音楽・市参事会音楽・大学音楽の3つを統括する、いわば「ライプツィヒ市音楽総監督」ともいうべきものだった。バッハは最初の数年間(1723~28年)、教会暦にして5年分のカンタータ(1年当たり60曲)を作曲した。音楽監督就任と同時に引き継いだトーマス教会少年合唱団に対しては不満だらけであり、1730年には次のように評している。「この中で、17人はまあ使える。20人はまだ使えない。残り17人は問題外。」

1729年春、バッハはかつてテレマンが創設した合奏団コレギウム・ムジクムを受け継ぎ、この団員とともに週に1度市内のコーヒー店ツィンマーマン・カフェハウス(Zimmermannsche Kaffeehaus)にて演奏し、1741年までその指導にあたった。 また街の文学界とも親交を結び、1727年にはバッハ自身も高く評価していた文学者ヨハン・クリストフ・ゴットシェートの歌詞で、葬送曲『侯妃よ、なお一条の光を』BWV198を作曲している。 数多くの教会カンタータ、『ヨハネ受難曲』『マタイ受難曲』『クリスマス・オラトリオ』『ミサ曲ロ短調』『フーガの技法』など、バッハの重要な作品の多くはライプツィヒで生まれた。筆名ピカンダー(カササギ男)で知られるクリスチャン・フリードリヒ・ヘンリーツィの詞には15年にわたり曲を付け、他にも文才によって当時のライプツィヒであまねく称賛を受けていたクリスティアーナ・マリアーナ・フォン・ツィーグラーの9つの詩文を楽曲へと昇華させた。
 
 
1740年頃のライプツィヒ市街
1736年、バッハとトーマス学校長ヨハン・アウグスト・エルネスティの間で起こった「合唱団長論争」と呼ばれる争いは、もはや誰の目にも明らかなものだった。これは、表向きには合唱団長を任命する権限をめぐる問題だったが、実際は音楽の軽視がその焦点となっていた。最終的にバッハは1738年の春季通商市のためライプツィヒに逗留していたザクセン選帝侯に謁見を許され、この権限はバッハに認められたと考えられている。1750年に亡くなるまでトーマス教会音楽監督であったバッハの任務は、市内教会での礼拝や特別な教会行事だけでなく、市の音楽総監督として様々な非教会行事の世話役ともいうべき役割も果たしていた。さらには多くの町から新設オルガンの奉献式の演奏を依頼され、これに出向いた。

その後1749年の卒中と思われる発作が原因でほとんど失明状態となり、1750年春に目の手術を受けた。しかし回復することなく、1750年7月28日にこの世を去った。48歳の妻と子供たちが残され、そのうち5人はまだ未成年だった。バッハの亡骸は市街から東部に少し離れたところにあるヨハニス墓地(Johannisfriedhof / 現・旧ヨハニス墓地 Alter Johannisfriedhof)に埋葬されたが、その後バッハの音楽の埋没と共にその墓の位置も分からなくなり、ロベルト・シューマンがバッハに花束を手向けようと墓地にやってきた際も、誰もその場所を知らないという状態だった。そしてバッハの頭蓋骨は死後約150年が経過した1894年、ライプツィヒ大学の解剖学教授ヴィルヘルム・ヒスの鑑定によってそれと確認された。その後遺骨は墓地敷地内のヨハニス教会に安置されていたが、教会が第二次大戦で破壊されたことから、1949年7月28日にその遺骨の入った柩は彼ゆかりのトーマス教会に移設された。それから今日に至るまで、バッハはトーマス教会内陣にて永遠の眠りについている。

最初の妻マリア・バルバラ・バッハ(1720年に急逝)と再婚相手のアンナ・マグダレーナ・バッハとの間に生まれた20人の子供のうち、4人の息子はバッハと同じように歴史に名を残す作曲家になった。一方、19世紀以前の音楽演奏は当代の作品中心であったため、バッハも例に漏れず死後その作品は忘れ去られようとしていた。今日「音楽の父」とまで呼ばれる再評価は、彼の音楽を再興し広く世に知らしめたロマン派作曲家、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの業績なしには語れない。以降ライプツィヒではバッハの作品研究・作品解釈に力が注がれ、こうした動きからバッハの研究機関・協会団体が設立されるとともに、バッハ音楽祭やコンクールが開催されるようになった。
 
 
逸話

バッハがある日トーマス教会でカンタータの指導をしていた時のこと。バッハが曲のある部分を幾度も繰り返し練習させたにもかかわらず、合唱団はその部分を正しく歌いだすことができない。ついにバッハの堪忍袋の緒は切れ、怒鳴り声を上げた。

「合唱、そこで歌い出す(Der Chor fällt ein)!」

するとどうしたことだろう。その場にいた合唱団員と会衆は大慌て。大挙して我先にと出口に押し寄せた。楽譜はそこら中にちらばり、椅子もひっくり返る始末。当のバッハは、何が何やらわからず1人ぽつんと教会に残された。

というのも、ドイツ語の「合唱、そこで歌い出す!」は、「教会内陣が崩れ落ちる!」とまったく同じ文なのだ。自分の放った一言が何を引き起こしたかを把握したとき、バッハはその勘違いに大笑いしたという。
 
 
 
 
 
バッハの住居跡
 
音楽監督とその家族の居宅のあった当時のトーマス学校校舎・兼寄宿舎はトーマス教会隣(現・教区監督庁「トーマス館(Thomashaus)」の位置)に建っていた。建物は1902年に取り壊されたために現存せず、跡地はトーマス館壁面の記念銘板によって示されている。唯一残されたバッハの住まい入口の扉は彼の生誕地・テューリンゲン州アイゼナッハ市にあるバッハ・ハウス博物館 Bachhaus Eisenach(世界最大のバッハ資料展示施設)にて現在保存・公開されている。
 
 
1735年当時のトーマス学校(画像中央、教会の左奥)
 
バッハの活動場所
ここで1723年5月5日にトーマス教会音楽監督の契約書に署名した。

  • トーマス教会ニコライ教会、及び現存しない新教会(マタイ教会)・ヨハニス教会・ライプツィヒ大学パウリナー教会・旧ペトルス教会

  • ロマヌス館(Romanushaus)
館内で開かれていたクリスティアーナ・マリアーナ・フォン・ツィーグラーの文学・音楽サロンによく招かれた。1704年完成の建物は当地のバロック建築の模範となった。1785年には当時3階にあったカフェに詩人シラーも訪れた。現・観光案内所そば、Brühl 18, 04109 Leipzig
 
 
ロマヌス館
  • ボーゼ館(Bosehaus)
「夏の広間」でよく演奏した。現バッハ博物館・資料財団
 
  • マルクト広場(Markt
ここで1734年10月5日、王侯館(Königshaus)に逗留中のザクセン選帝侯に向けて表敬カンタータ『おのが幸を讃えよ、祝されしザクセン』BWV215が初演された。
 
 
ライプツィヒ時代の代表作
  • 「主よ、人の望みの喜びよ」によって名高い『心と口と行いと命』 BWV147(1723年)、『目覚めよと呼ぶ声あり』BWV140(1731年)に代表される教会カンタータの大部分
  • 6つのトリオ・ソナタ BWV525-530(1730年頃)
  • マニフィカト BWV243(1723 / 1733年)
  • 6曲のモテット BWV225-230(1723~30年頃)
  • ヨハネ受難曲 BWV245(1724年)
  • マタイ受難曲 BWV244(1729年)
  • クリスマス・オラトリオ BWV248(1734年)
  • コーヒー・カンタータ『そっと黙って、お喋りなさるな』 BWV211(1734年)
  • チェンバロ協奏曲 BWV1052-1065(1730~40年頃)
  • 平均律クラヴィーア曲集 第2巻 BWV870-893(1742年)
  • 農民カンタータ『わしらの新しいご領主に』 BWV212(1742年)
  • ゴルトベルク変奏曲 BWV988(1742年)
  • 音楽の捧げもの BWV1079(1747年)
  • ミサ曲ロ短調 BWV232(1733~48年)
  • フーガの技法 BWV1080(未完)
 
 
墓所

トーマス教会 内陣:1750年7月31日にヨハニス墓地に埋葬。1894年10月22日に遺骨発掘、1900年7月16日に墓地内のヨハニス教会に改葬。第二次大戦の空爆による教会倒壊後、1949年7月28日にトーマス教会に移設。1950年7月28日、バッハ200回目の命日に柩と現在の銅板製墓碑を内陣に設置。1961~64年の教会修復時に床部分に埋設。また奥にある洗礼盤では、アンナ・マグダレーナとの間の13人の子供のうち、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ、ヨハン・クリスチャンら11人が洗礼を受けた。余談ながら、同洗礼盤は1813年、リヒャルト・ワーグナーの洗礼にも使用された。
 
記念碑・銘板
  • 旧バッハ像
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ寄贈、1843年にトーマス教会西側の小門前に建立。エドヴァルト・ベンデマン設計、ヘルマン・クナウル制作。トーマス教会西側の環状大通りに面した緑地内
 
  • バッハ像
カール・ゼフナー制作、1908年5月17日除幕。トーマス教会南側の小広場
 
  • バッハのステンドグラスとバッハ・オルガン
ステンドグラスとパイプオルガンはトーマス教会内の向かい合う位置にある。バッハを描いたステンドグラスは1895年に、バッハ・オルガンは2000年に完成。7面のステンドグラスは左から順に第一次世界大戦、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフ(三十年戦争)、バッハ、ルターと宗教改革、メンデルスゾーン、皇帝ヴィルヘルム1世(ドイツ帝国成立)、東ドイツ平和革命がモチーフとなっているが、これらはプロテスタント教派の道を拓いたルターを中心軸に、左右にプロテスタント文化を代表する2人の音楽家、さらに2人の英雄的なプロテスタント君主、そして両端が戦争と平和というように対をなすという、まるでバッハの音楽的構造を見るような配置となっている。
 
  • トーマス教会内の記念銘板(内陣手前右手の壁)
  • トーマス学校・兼寄宿舎跡地、ヨハン・セバスチャン・バッハとアンナ・マグダレーナ・バッハを顕彰する記念銘板
バッハ一家の住んだ場所。現トーマス・ショップ隣、教区監督庁のある「トーマス館(Thomashaus)」の側面
 
  • ツィンマーマン・カフェハウス跡の記念銘板
ここで毎週金曜にコレギウム・ムジクムを率いて演奏を行い、夏は屋外テラスでコンサートを行っていた。当楽団のためにバッハは管弦楽組曲BWV1066-1069(後世『G線上のアリア』として編曲される第3番第2楽章が特に有名)などを今に伝わる形へと仕上げた。現・観光案内所そば、Katharinenstraße 6, 04109 Leipzig
 
  • 農民カンタータ公演の記念銘板
旧クラインチョッハー荘園(Rittergut Kleinzschocher)への入口。1742年8月30日、新領主カール・ハインリヒ・フォン・ディースカウのための祝宴にて『農民カンタータ』が初演された場所。所在地:Kantatenweg 31, 04229 Leipzig 
 
 
バッハに関する常設展
  • トーマス教会 南聖具室(Südsakristei)
カンタータ『おお永遠、そは雷の言葉』BWV60を基に「バッハが生前に出会った死の安息」が解説され、教会の所有するバッハ時代に使用されていた古楽器や聖餐杯などを展示(拝観時間中に無料公開)。

  • バッハ博物館
 
 
カフェ・バウム博物館
  • 旧市庁舎
内部はライプツィヒ市歴史博物館となっており、トーマスカントル契約の署名に使用した円卓や原物肖像画などを展示。

コレギウム・ムジクムとコーヒー・カンタータ
 
 
彼の名を持つ場所・施設 1873年9月5日制定。通りに沿って現在のトーマス学校がある。
 
  • ホテル「アルコナ・リビング〝バッハ・フィアツェーン〟(arcona LIVING BACH14)」 http://bach14.arcona.de
 
 
祭典・行事
  • トーマス教会少年合唱団のモテット・カンタータ公演(トーマス教会のページ参照)
共にバッハ資料財団主催。コンクールは毎偶数年に開催される。

  • バッハ生誕記念式
毎年3月21日12:00~ 場所:トーマス教会南側の小広場

  • バッハ像前の月曜コンサート
7~8月の毎週月曜19:00~ 場所:同上