Leipzig Tourismus und Marketing GmbH

Augustusplatz 9, D-04109 Leipzig
 
Stand / Druckdatum: 09.12.2016

Mendelssohn-Haus | Leipzig Tourismus und Marketing GmbH

 

 
 
 
 
 
 
 
 
   
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観光案内~ライプツィヒ発見    音楽    メンデルスゾーン旧宅
 

メンデルスゾーン旧宅(メンデルスゾーン・ハウス)
Mendelssohn-Haus

現在の3代目ゲヴァントハウス・コンサートホールから徒歩数分の場所に、作曲家フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809~1847)が暮らし、そして息を引き取った家が残されています。彼は1835年から ―短い中断を経ながらも― 1847年までゲヴァントハウス管弦楽団の楽長(常任指揮者)を務め、1843年には当地にドイツ初の音楽院(音楽大学)を創設しました。かつて暮らしたハンブルクやベルリンなど各地の家が失われてしまったなか、この建物はメンデルスゾーンの私邸として唯一現存するものです。

現在では1・2階が世界で唯一のメンデルスゾーン博物館となり、音楽の街ライプツィヒを語る上で欠かすことのできない彼の偉業が顕彰されています。2014年の205回目の誕生日に追加された1階展示室では、21世紀の視点から見たメンデルスゾーンの音楽の世界というテーマの下、古風な家具に腰かけ楽曲を聴き、デジタル化された文献をめくり、自筆譜・書簡・楽器などを見学しながらその生涯と作品について知ることができます。造語で「エフェクトリウム(Effektorium)」と名づけられた一室では、見学者がマルチメディア装置の楽団・合唱団の前に置かれたデジタル譜面台を使って『序曲「夏の夜の夢」』『緑の森よ』ほかの作品を実際に指揮したり、室内を歩きながら楽器・声部ごとの響きを聴き分けたりと、音楽史においてメンデルスゾーンが確立した指揮者の役割を追体験することができます。

そして1844年の建設時のものという古びた木製の階段を上れば、1845~47年にメンデルスゾーンが実際に暮らした2階の住居があります。床材は当時のままに、東西ドイツ統一後に当時の後期ビーダーマイヤー様式の内装が忠実に復原され、再設置された家具の大部分はかつて一家が実際に使用していたものです。ここは19世紀ロマン派時代の雰囲気のままにメンデルスゾーンの私生活を垣間見ることのできる空間で、ゆかりの品々やその画才に驚かされる自作の水彩画といった貴重な資料が公開されています。書斎ではオラトリオ『エリヤ』が完成されたほか、音楽サロンでは親しい友人たちを招いて「日曜音楽会」が開かれ、シューマン夫妻、ルイ・シュポーア、エクトル・ベルリオーズ、リヒャルト・ワーグナーらが訪れました。旧宅の修復・公開によって「日曜音楽会」も復活し、現在は毎週日曜11:00から様々な演奏家がここで音楽を奏でます。

1階と2階の展示室はメンデルスゾーンの職業人と個人の姿、現代的なエフェクトリウムと伝統的な音楽サロンというように対をなし、時代を超えた業績を讃える誇らしい雰囲気に満ちあふれています。また芝生の緑の鮮やかな奥の庭には旧馬車庫があり、別館としてメンデルスゾーンについての特別展が行われています。
 
 
エフェクトリウム
※日本語で「メンデルスゾーン・ハウス」と表記されることが多いが、ドイツ語では生家・旧宅のみならず滞在した宿、さらには当人の居住に関係ない新設の記念館まですべて「ハウス(Haus)」と称されるため、当サイトでは唯一現存する家ということを明確にするために日本語で「旧宅」と表記する。


所在地
Goldschmidtstraße 12, 04103 Leipzig
(中心街のゲヴァントハウス・コンサートホール前から徒歩7分)

最寄り停留所
► Augustusplatz(アウグストゥスプラッツ):路面電車4・7・8・10・11・12・14・15・16号線

開館時間
毎日10:00~18:00

入館料(特別展含む)
一般:7.50ユーロ
割引:6ユーロ
(毎月第2火曜は無料開館)

日曜音楽会
毎週日曜11:00~
(席数が少ないため、早めの来場が望ましい)
一般:15ユーロ
割引:10ユーロ
(追加料金なしで博物館も見学可)

お問合わせ先
Tel.: +49 (0)341-96288-20
Fax: +49 (0)341-96288-220
国際メンデルスゾーン基金(日本語あり)http://www.mendelssohn-stiftung.de
 
 
 
 
 
 

◆ライプツィヒ物知り事典4

フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
Felix Mendelssohn Bartholdy

トーマス教会前のメンデルスゾーン像
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(*注)は哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの孫として1809年2月3日、ハンブルクに生まれた。ベルリンの音楽教師カール・フリードリヒ・ツェルターに学び、早くも9歳の時には姉ファニー(既婚姓:ヘンゼル)と共にピアニストとして舞台に上がった。 ツェルターはベルリン・ジングアカデミー(ベルリン合唱協会)でメンデルスゾーンをヨハン・セバスチャン・バッハの作品と、そして1821年には円熟時代を迎えていたワイマール在住のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテと引き合わせた。バッハの音楽との出会いはメンデルスゾーンの人生にとって重要な出来事となり、ゲーテとは生涯にわたる深い友情を結ぶこととなる。

(*注)メンデルスゾーン=バルトルディ(Mendelssohn-Bartholdy)というハイフン入り表記は誤り。

1827年2月1日、ゲヴァントハウス・コンサートホールで『交響曲第1番』MWV N 13が初演され、初めてメンデルスゾーンの作品がライプツィヒに鳴り響いた。そして1835年には26歳にして史上最年少のゲヴァントハウス楽長(ゲヴァントハウス管弦楽団常任指揮者)に就任し、ベルリンからライプツィヒへと居を移した。彼はここで定期演奏会の曲目を取り決め、楽団の練習を指導し、本番で指揮棒を振るという、近代的な「指揮者」という役割を世界で初めて確立した。12年にわたるライプツィヒ時代、メンデルスゾーンはフェルディナント・ダヴィット(同コンサートマスター)と共にゲヴァントハウス管弦楽団をヨーロッパを代表する水準にまで引き上げ、そして次代の音楽家養成への熱意の下、市内にドイツ初となる音楽のための高等教育機関「ライプツィヒ音楽院(Conservatorium der Musik)」を創設した。

ライプツィヒ音楽院(現メンデルスゾーン音楽演劇大学)は1843年4月2日に開校した。創立者メンデルスゾーンが初代院長に就任し、ロベルト・シューマンをはじめ、フェルディナント・ダヴィット、モーリッツ・ハウプトマン、ヘンリエッテ・ビューナウ・グラーバウ、カール・フェルディナント・ベッカーといった音楽家たちが最初の教授陣として招聘された。 そしてメンデルスゾーンが1845年に家族と共に移り住んだ市内の新築の家(現メンデルスゾーン旧宅)は、瞬く間に同時代を代表する芸術家たちの社交場となる。音楽サロンにはクララ・シューマン、フランツ・リスト、エクトル・ベルリオーズ、ニルス・ガーデ、ヨーゼフ・ヨアヒムらが集い、毎週日曜には小演奏会を開き、音楽について語らった。メンデルスゾーンは積極的に彼らの作品を取り上げ、自らの指揮でゲヴァントハウス・コンサートホールにおける初演を行なっている。

それと共に、メンデルスゾーンは前時代の音楽と見なされていたヘンデルやバッハの作品の再演にも尽力した。特にコンサートプログラムにヘンデル・バッハらの作品を並べた連続演奏会「歴史音楽コンサート」(1838年)を始めたことは注目に値する。そして1841年4月4日、トーマス教会にてメンデルスゾーン指揮によるバッハ『マタイ受難曲』の再演が行われる。これはバッハの死後ライプツィヒで初めて演奏されたものだった。メンデルスゾーンはそれに先立つ1829年にベルリン・ジンクアカデミー・コンサートホール(現マクシム・ゴーリキー劇場)において100年振りと銘打ったマタイ受難曲の蘇演を行っており、これが現在のバッハの再評価の始まりとなる「バッハ・ルネッサンス」を引き起こした。また1843年にはトーマス教会西側の小門前に世界で最初のバッハ記念碑(現在は旧バッハ像と呼ばれる)を建立している。
 
 
彼が活躍した初代ゲヴァントハウス・コンサートホール
交響曲やオラトリオを創作する傍ら、シェイクスピアの喜劇『夏の夜の夢』の世界を音楽化し(MWV M 13、その一部『結婚行進曲』は現在でも婚礼曲として不動の人気を誇る)、また1842年3月3日のライプツィヒにおける『交響曲第3番「スコットランド」』MWV N 17の初演は大成功を収め、それ以降この作品は定番プログラムとなった。1843年4月13日にはライプツィヒ名誉市民の称号が贈られた。そして1847年3月18日、ゲヴァントハウス・コンサートホールにおいて指揮者として最後の舞台を踏み、その翌日に職を退いた。数年来、肉体的・精神的苦痛に悩まされていたメンデルスゾーンは同年11月4日、脳卒中によって自宅で息を引き取った。38歳の若さだった。告別式は1847年11月7日にライプツィヒ大学パウリナー教会で営まれ、自宅から教会までの葬列を管楽編曲による『葬送行進曲』(無言歌集 第5巻第3番 MWV U 177)が見送った。千人以上の参列者が天才の早すぎる死を悼み、亡骸はその夜の特別列車でベルリンの三位一体教区墓地へと移送された。

メンデルスゾーンの死後、その作品の大部分は忘れ去られていった。1884年開場のゲヴァントハウス新ホール前には1892年にメンデルスゾーン像が除幕されるが、ドイツの反ユダヤ主義の時代の流れの中でメンデルスゾーンもユダヤ人の家系出身であることを理由に中傷・迫害を受けることになる。ライプツィヒでもナチ党政権掌握後の1934年11月を最後に彼の作品は演奏されなくなり、1936年11月9日夜にはナチ党員によってそのメンデルスゾーン像が撤去されるという事件が起きた。さらに戦後の東ドイツという社会主義体制下でも、上流階級の出身者として歪んだ解釈が与えられた。

ようやく転機が訪れたのは東西ドイツ統一後のことで、1991年10月12日、ゲヴァントハウス楽長クルト・マズアによって「国際メンデルスゾーン基金」が設立された。多くの日本人からの寄付によって同財団は荒れ果てていたメンデルスゾーンの旧宅を大々的に修理・改装し、1997年11月4日から再び博物館・文化交流の場として公開した。その音楽サロンでは毎週日曜にコンサートが行われるようになり、かつての「日曜音楽会」の伝統が蘇った。撤去事件から70年を経てメンデルスゾーン像もトーマス教会前に復原され、2008年10月18日に除幕された。それに加え、2009年には当地のザクセン科学アカデミーによる作品主題目録「MWV(Mendelssohn-Werkverzeichnis)」が完成し、2011年には個人所有の膨大、かつ大変貴重なメンデルスゾーン・コレクションがライプツィヒ市歴史博物館に譲渡されるなど、ライプツィヒは今や世界有数のメンデルスゾーン研究拠点となっている。
 
 
逸話

ゲヴァントハウス管弦楽団楽長であるメンデルスゾーンは、そう簡単にはうろたえない。ところが、それはある日のこと。彼の指揮によるベートーヴェン作品のコンサートで、観客はその情熱あふれる演奏に熱心に耳を傾けていた。そして唐突に音楽に「間」があったその瞬間、強烈なライプツィヒ訛りの女性の声が、まるで歌うかのようにコンサートホール中にこだましたのだ。

「それさぁ、あたしゃ、いっつも酢漬けキャベツと煮とるけどねぇ!」

もちろん彼女の友達はおろか、聴衆や楽団員たちにも筒抜けの一声だった。これにはさすがのメンデルスゾーンも動揺を隠しきれなかったという。
 
 
 
 
 
メンデルスゾーンゆかりの場所
  • 第1の住居跡
ライプツィヒ時代最初の家はトーマス教会から環状大通りを挟んだ向かいの「ルアゲンシュタインズ・ガルテン(Lurgensteins Garten)」という場所にあった。現在のコメルツ銀行(Commerzbank)の南面付近(現存せず、跡地を示すものも設置されていない)

  • 第2の住居
1845年以降の家。現メンデルスゾーン旧宅
 
 
音楽院(1885年)

指揮者として活躍した初代ゲヴァントハウス・コンサートホールと、彼自身が1843年に創設したドイツ初の音楽院は中心街の隣接した場所にあった。両者の建物は1894年に解体され、コンサートホールへの出入口となっていた階段のある属棟のみ現存。跡地一面には世界初の見本市専用施設となる「市立商館(Städtisches Kaufhaus)」が建設された。市立商館の南東の角にホール跡を示す銘板がある。

シューマン夫妻と親交を結び、お互いの家でサロン演奏会を行った。
 
 
旧バッハ像

1840年6月25日、『交響曲第2番「讃歌」』MWV A 18初演。1841年4月4日、バッハの死後ライプツィヒで初となる『マタイ受難曲』の再演(1829年のベルリン蘇演時とは別編曲)。バッハ作品を自ら演奏する慈善オルガンコンサートを行い、1843年にバッハ記念碑(旧バッハ像)寄贈。1997年、肖像の描かれたステンドグラスが完成。2008年、教会の西側正面にメンデルスゾーン像再建。
 
  • 改革派教会(Reformierte Kirche)
メンデルスゾーンは1816年にプロテスタント・改革派教会の洗礼を受け(ルター派とする資料は誤り)、ライプツィヒでも改革派教会員だった。現在の教会堂は1899年の完成。所在地:Tröndlinring 7, 04105 Leipzig
 
  • ライプツィヒ大学パウリナー教会(Paulinerkirche / Universitätskirche St. Pauli)
1837年3月16日、自身の指揮によって『パウロ』MWV A 14ライプツィヒ初演(世界初演は1836年5月22日、デュッセルドルフ)。1847年4月2日に再びここで同曲を指揮したのが公の場で見せた最後の姿となる。そして7ヶ月後の11月7日、ここは彼の葬儀の場所となった。社会主義プロパガンダに基づく1968年5月30日の爆破解体によって建物は失われたが、2009年の大学創立600周年を機に現代建築による再建が始まる。現ゲヴァントハウス・コンサートホールそば、Augustusplatz 10, 04109 Leipzig
 
 
旧宅付近から見る1846年のライプツィヒ市街(中央がパウリナー教会)
  • ザクセン科学アカデミー(Sächsische Akademie der Wissenschaften zu Leipzig)
直接的なゆかりの場所ではないものの重点的な作品研究が行われており、2009年に研究員ラルフ・ヴェーナーにより作品主題目録「MWV(Mendelssohn-Werkverzeichnis)」が完成。現在、メンデルスゾーン全集の編集拠点。所在地:Karl-Tauchnitz-Straße 1, 04107 Leipzig
 
 
ライプツィヒで初演された代表作
  • 交響曲第1番 MWV N 13(1827年)
  • 弦楽四重奏曲第4番 MWV R 26(1837年)
  • 詩篇第42番「鹿が谷の水を慕うように」 MWV A 15(1838年)
  • 弦楽四重奏曲第3番 MWV R 30(1839年)
  • 序曲「リュイ・ブラース」 MWV P 15(1839年)
  • ピアノ三重奏曲第1番 MWV Q 29(1839年)
  • グーテンベルク祝典歌 MWV D 4(1840年)(第2曲が讃美歌98番『あめには栄え』の原曲となった)
  • 交響曲第2番「讃歌」 MWV A 18(1840年)
  • 交響曲第3番「スコットランド」 MWV N 18(1842年)
  • チェロソナタ第2番 MWV Q 32(1843年)
  • ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 MWV O 14(1845年)
 
記念碑
  • メンデルスゾーン像(トーマス教会前)
ヴェルナー・シュタイン制作、2代目ゲヴァントハウス・コンサートホール前に1892年5月26日建立。1936年11月9日夜、ユダヤ系の出自を理由にナチ党員によって撤去され失われた。2008年、自身が寄贈したバッハ記念碑(旧バッハ像)と向かい合う位置となるトーマス教会西側の正面に場所を改めて復原され、同年10月18日除幕。台座の裏面には「高貴たるは音楽という言葉のみが告げんことを(Edles nur künde die Sprache der Töne)」というゲヴァントハウス管弦楽団の古い格言が刻まれている。
 
  • メンデルスゾーン像(現ゲヴァントハウス・コンサートホール内)
ヨアヒム・ヤストラム制作の現代彫刻で、東西ドイツ統一後初の新たなメンデルスゾーン像として1993年3月10日にホール前の屋外に建立。現在は内部の「メンデルスゾーン・ロビー(Mendelssohn-Foyer)」に移されている。
 
 
 
  • 首像(2代目ゲヴァントハウス・コンサートホール跡)

撤去事件前のメンデルスゾーン像のあった場所。1947年11月4日、それを偲んでワルター・アルノルト制作の新たな首像が跡地に設置された。現在その視線の先の現代建築物(ライプツィヒ大学人文科学棟)の壁面には2代目ホール跡を示す銘板もある。首像横の川岸は「メンデルスゾーンの岸辺(Mendelssohn-Ufer)」と名づけられている。旧ドイツ帝国最高裁判所の南側、モーツァルト通り(Mozartstraße)とジムゾン通り(Simsonstraße)の交点付近
 
  • 胸像(メンデルスゾーン旧宅の庭)
フェリックス・ルートヴィヒ制作、1997年10月31日除幕。
 
  • メンデルスゾーンのステンドグラス
1997年完成。トーマス教会南側の窓
 
 
メンデルスゾーンに関する常設展
  • メンデルスゾーン旧宅
世界有数のメンデルスゾーン・コレクションを持つ。当時のゲヴァントハウス・コンサートホールの指揮者譜面台をはじめとする貴重な品々を常設展・特別展にて公開。
 
 
  • メンデルスゾーン音楽演劇大学(Hochschule für Musik und Theater „Felix Mendelssohn Bartholdy“ Leipzig )
自らの創設による音楽院の後身。ロベルト・シューマンやマックス・レーガーらが教鞭を執り、アーサー・サリヴァン、エドヴァルド・グリーグ、レオシュ・ヤナーチェク、瀧廉太郎、齋藤秀雄、カール・リヒター、クルト・マズアなど幾多の音楽家が学んだ。1946年より「メンデルスゾーン」が校名に加わる。所在地:Grassistraße 8, 04107 Leipzig
 
 

現ゲヴァントハウス・コンサートホールの大小2つのホールのうち室内楽用の小ホールは、1997年「メンデルスゾーン・ザール(Mendelssohn-Saal)」と改名された。その下部にあるロビーも「メンデルスゾーン・ロビー(Mendelssohn-Foyer)」という。
 
1864年制定、1935年にナチ党がアントン・ブルックナー通りと改名、1945年に進駐したアメリカ軍当局により旧名復帰。
 
 
祭典・行事 毎年異なるテーマの下に開催されるライプツィヒの秋のハイライト。ゲヴァントハウス管弦楽団を中心とする質の高いプログラムが特徴。