Leipzig Tourismus und Marketing GmbH

Augustusplatz 9, D-04109 Leipzig
 
Stand / Druckdatum: 04.12.2016

Völkerschlachtdenkmal | Leipzig Tourismus und Marketing GmbH

 

 
 
 
 
 
 
 
 
   
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観光案内~ライプツィヒ発見    歴史    諸国民戦争記念碑
 

諸国民戦争記念碑
Völkerschlachtdenkmal

ライプツィヒのシンボルとなっているこの巨大な建造物は、この地で繰り広げられた諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)を記念するものです。1813年10月、フランスを筆頭とするナポレオン軍とプロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデン連合軍がライプツィヒにて激突し、これに敗れた皇帝ナポレオンのヨーロッパ支配が幕を閉じるという世界史を動かす出来事がありました。

記念碑はその戦後100年となる1913年、古戦場の中央に建設されました。記念碑建造物としてヨーロッパ最大でその高さは91メートル、屋上からは360度の眺望が広がります。内部では約10メートルの石像、幾多の騎士像をあしらった高さ68メートルの天井ドームが重厚な雰囲気を醸し出し、また建設の過程や、記念碑がその後どう受容されてきたかについての展示も行われています。記念碑前の池が湛える水は、この戦争のために流された涙を象徴するものです。周囲に茂る夏草は、ここが〝夢の跡〟であることを静かに物語ります。記念碑に附属した1813年記念館(Forum 1813)は諸国民戦争に至る背景から戦乱の終結まで、この歴史的出来事をテーマとする展示施設です。武器・軍服・鎧・そして個人の思い出の品々が、引きずり込まれた兵士たちの悲しみや戦争のむなしさを今へと伝えています。

また記念碑の敷地の正門前、右側にある小高い丘にはナポレオン石碑(Napoleon-Stein)と呼ばれる小さなモニュメントがあります。この丘は皇帝ナポレオンが自ら合戦を指揮した本営のあった場所で、石碑は諸国民戦争記念碑が建造されるまで、ライプツィヒにおける諸国民戦争のシンボルでした。かつてライプツィヒ大学に留学した森鷗外は、幾度か石碑まで足を運んだことを1885(明治18)年当時の日記に残しています。諸国民戦争記念碑の裏手に広がる南墓地(Südfriedhof)は国内最大といわれる公園墓地で、ここには心理学者ヴィルヘルム・ヴント、音楽学者フーゴ・リーマン、農芸化学者オスカル・ケルネル(お雇い外国人として滞日)、ゲヴァントハウス楽長アルトゥル・ニキシュ、フランツ・コンヴィチュニー、クルト・マズア、トーマス教会音楽監督カール・シュトラウベ、ギュンター・ラミン他多数のライプツィヒの名士たちが眠っています。


※記念碑屋上へは上り下り共に長い階段がございます。ご注意ください。
 
 
所在地
Straße des 18. Oktober 100, 04299 Leipzig

最寄り停留所・鉄道駅
► Völkerschlachtdenkmal(フェルカーシュラハトデンクマール):路面電車15号線
(中央駅からの場合:駅前停留所4番ホームよりMeusdorf行き、9つ目の停留所。所要時間約12分。)
► Leipzig Völkerschlachtdenkmal(ライプツィヒ・フェルカーシュラハトデンクマール):都市鉄道(Sバーン)S1・S3号線

開館時間
4~10月:
毎日10:00~18:00
11~3月:
毎日10:00~16:00
※1813年記念館も同様

入館料
諸国民戦争記念碑・1813年記念館共通
一般:6ユーロ
割引:4ユーロ
6歳以下無料

南墓地
4~9月:毎日7:00~21:00
10~3月:毎日8:00~18:00
見学無料

お問合わせ先(市歴史博物館)
Tel.: +49 (0)341-24168-70
Fax: +49 (0)341-24168-7137
http://www.stadtgeschichtliches-museum-leipzig.de (一部日本語あり)
 
 
 
 
 
 

◆ライプツィヒ物知り事典9

諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)
Völkerschlacht bei Leipzig

毎年10月に行われる諸国民戦争記念祭
1813年の「諸国民戦争」は、ライプツィヒを舞台に繰り広げられたナポレオン戦争中の会戦。戦地名から「ライプツィヒの戦い」とも呼ばれる。いかにしてこの戦争が起きたかを理解するためには、その前史について少し触れる必要がある。ドイツ地方は神聖ローマ帝国の中心的領土としてその歴史を歩んできた。時代の流れの中で各地を治めていた諸侯の勢力と独立性が次第に強まり、特に三十年戦争(1618~48年)以降のドイツ地方は帝国を構成する各領邦による「国家連合」と呼ぶべき様相を呈していた。ライプツィヒは神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領(ザクセン公国)の都市で、ザクセンはドレスデン・ライプツィヒを中心に独自の文化を花開かせていた。

一方フランスでは1789年にフランス革命が起きて王制が廃され、社会的混乱の中でナポレオン・ボナパルト(1769~1821)が台頭し、ヨーロッパ支配のための戦争を繰り広げるという新たな時代の局面を迎える。ナポレオン勢力によって1806年に神聖ローマ帝国はついに瓦解へと追い込まれ、ドイツ地方は各領邦がそれぞれ別の国家として独立するという諸邦分立時代に入った。ザクセン選帝侯領も新たに「ザクセン王国」という独立国家となるが、ザクセンはもとよりドイツ諸国の置かれた実状はナポレオン体制への屈服だった。1812年冬、大陸制覇を目指したナポレオンのロシア遠征が失敗に終わると、ヨーロッパ諸国ではナポレオン支配からの解放を目指す動きが一挙に活発化し、ここに反ナポレオン国家同盟による「解放戦争」が勃発する。まずプロイセン・ロシア同盟がフランスに宣戦布告し、これに中小のドイツ諸国が同調し、スウェーデン・オーストリアが加わったことで形勢が定まった。

これによって1813年10月16日に開戦したライプツィヒを戦場とする「諸国民戦争」は、ナポレオン戦争中最大の戦闘となった。フランスを筆頭とする19万のナポレオン軍に対して36万のプロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデン連合軍が包囲攻撃をかけ、3日間の激戦の末にナポレオン軍は敗走、連合軍の勝利によって諸国はナポレオン支配から解放されることとなった。ザクセン王は最後までナポレオンへの忠誠を貫いたため地元のザクセン軍はナポレオン軍につき、それゆえライプツィヒは皮肉にも戦いの敗者でありながら自由を勝ち取る結果となった。この会戦でライプツィヒ一帯は大混乱に陥り、10万人以上の兵士たちが命を落としたという。第一次世界大戦が起きるまで、諸国民戦争は人類が経験した史上最大の戦争だった。そしてこの出来事はヨーロッパ史の大きな転換点となった。フランス皇帝ナポレオンは敗戦によって失脚し、彼によるヨーロッパ支配も終わりを告げた。翌年のウィーン会議に集まった各国は新たな国際秩序を取り決め、ヨーロッパはこの「ウィーン体制」の下で近代化の道を歩んでゆくこととなる。